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色々と書く

ライ麦畑でつかまえて

はじめに

ライ麦畑でつかまえて」という小説の題名は、あまり小説に関心が無い人でも一度くらいは耳にしたことがあるのではないだろうか。

そして一度耳にすれば、忘れる方が難しいほどに気持ちの良い響きだと思う。

私はライ麦畑でつかまえてを初めて読んだ日より、ずっと前からその題名を知っていたし、いつかは読んでみたいと思い続けて、でもなかなか読む機会のなかった数ある小説の中の一つだった。

この「ライ麦畑でつかまえて」は、「The Catcher in the Rye」というのが元々の題名で、米国の小説家J・D・サリンジャーによって執筆された長編小説だ。何が言いたいかというと「ライ麦畑でつかまえて」とは「The Catcher in the Rye」の和訳版のことだ。

「The Catcher in the Rye」はいくつかの和訳版があるが、野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」がもっとも有名なのだと思われる。とは言え、繁尾久訳の「ライ麦畑の捕手」が原題に一番近い訳だと言えるので、ライ麦畑でつかまえてという題名は名訳ではあるが忠実ではない。

まだ私がライ麦処女であった時分に、この題名から連想した景色は以下のようなものだった。

黄金色が果てしなく広がるライ麦畑があって、そこには白いワンピースに麦わら帽子なんかを被った女の子がいて、それを主人公が追いかけているような、ボーイミーツガールな光景を思い浮かべた。

そんな風に勝手な予想をしたままいざライ麦を読んでみた、あの日の衝撃は到底忘れられるものではない。いつライ麦要素が出てくるんだと読み進みていったのは記憶に新しい。想像とは全然違ったのだからびっくりした。でも、とても面白くて、今では数か月に一度は読むほどに好きな愛読書となっている。

しかしながら、今さらライ麦の梗概について説明するような真似はしない。

ここでは私が「ライ麦畑でつかまえて」内において個人的に好きな文章を私見を織り交ぜながら紹介していく。

この記事を書こうと思い立ったのは、今週末の7月16日が「The Catcher in the Rye」の刊行された日で、何度も読み返しているのだけれど、そういうわけだからまた読み返してみて、相変わらず面白くて、この気持ちを文字として残しておき、誰かに伝えたくなったからだ。

但しこれは、あくまでも野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」についてのことであり、「The Catcher in the Rye」やその他の和訳版については一切触れない。

そもそも、浅学の身ゆえに英語はほとんど読めないので原典について言及することもできず、かといって他の和訳版を読んでいないので、ただ触れられないだけだ。

そんな案配で名作(賛否両論あると思う)を語るなと言う声があるかもしれないが、都合の悪い言葉には耳をふさぐことにしているのであしからず。

注釈

ライ麦畑でつかまえて」を未読の方のために書く。

そもそもこの小説は主人公兼語り手であるホールデン・コールフィールドが療養中の病院で、去年のクリスマス頃を語るという体をとっているため、口語的な文体となっていおり、紹介していくうえでは地の文なのか台詞なのかが分かりづらくなってしまう。

紹介する文章がどういった状況でのものなのかは必要に応じてその都度簡単に記すが、地の文であろうが台詞であろうが全てに『』をつけていく。それらが地の文なのか台詞なのか、そんな説明にさして意味はないので基本的にはしない。地の文もホールデンの台詞だという認識で何ら問題はないからだ。

本題

『もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった≪デーヴィッド・カパーフィールド≫式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。』

 

これは冒頭の一文だ。

良い小説とは、往々に一行目から心をくすぐってくるものだ。

なんとなく1ページ目を開いて、いきなりこんなもの読まされたらたまったもんじゃない。何故今までこんなにも面白い小説を読まなかったのかと、この時点で後悔していた。後になって何度読み返してみても、この一行目を見たときの「やっぱこれだなあ」感は異常だ。世にいう実家のような安心感をここに見つけた。

四畳半神話大系」や「夜は短し歩けよ乙女」で知られ、最近では「夜行」が本屋大賞をとったりと売れっ子作家の最前線を走る森見登美彦のデビュー作「太陽の塔」の冒頭は、ライ麦の冒頭をパロディしたものとなっている。どんなものか紹介はしない。

私は「ライ麦畑でつかまえて」よりも前に「太陽の塔」を読んでおり、後になってパロディだと知った一行目を読んで、なんて面白い始まり方をしやがるんだと思った。それからしばらくしてライ麦を読み、「太陽の塔」の冒頭はこれを用いていたのかと驚いたと同時に、自分の無知を恥じた。

小説を読んでいると否が応でも気付かされるのが自分の知識や読書量の少なさである。

例えばこの「太陽の塔」問題では、「ライ麦畑でつかまえて」を先に読んでおけば、「太陽の塔」を読んだ際に、ライ麦のパロディだと笑える点を、なんて面白い始まり方をしやがるんだと、てんで見当違いな「面白さ」の受け取り方をしてしまったのだ。著者の狙いを自分の無知によって別の形で消化してしまうというのは、非常にもったいないことだ。

先の文に登場する「デーヴィッド・カパーフィールド」のこともそうだ。

まずデーヴィッド・カパーフィールドって何ぞやと、そう思った。

すぐにインターネットで調べて納得したが、デーヴィッド・カパーフィールドを知っていれば、わざわざ調べることもなく素直に面白味をあじわえたと考えると、やはり自分の知識のなさに嫌気が差してしまう。

話の収拾がつかなくなりそうなので、このくらいにしておく。

とにもかくにも、この冒頭は素晴らしい。

 

『十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいに冷たかったな』

 

ある意味では、私の中でもっともお気に入りの一節かもしれない。

魔女の乳首みたいに冷たいというのが、どのくらい冷たいかなんて全く想像できない。

なぜなら魔女の乳首なんて触ったこと一度もないのだから。でも、経験がないにしても、魔女の乳首みたいに冷たいって言われると、それがとても寒い状況であることが実によく伝わってくる。それはもう、うんと寒いんだなってのが本当に分かる。

センス抜群の言い回しだなあと思った。

 

『どのみち僕は、外科医とかヴァイオリニストとかなんかに、なるつもりはないんだから。』

 

これはホールデンの弟が幼くして亡くなったとき、ホールデンが窓ガラスを殴って破壊し続けたことによる後遺症で、今でも痛むときがあり、げんこつがつくれないという話の最後を占めた一節だ。

これの何が好きかといって、それをうまく説明することができない。

一言で表せば「ユーモアってのはこういうことなんだな」って思えるところが好きだ。

 私の言いたいこと、分かってくれる人がいたら嬉しい。

 

『拍手ってものは、いつだって的外れなものにおくられるんだ。<中略> 僕は演奏が終わったとき、アーニーが少し気の毒になったんだな。あいつは、自分の演奏がそれでいいのかどうかも、もうわかんなくなってんじゃないかと思うんだ。それは彼だけの罪じゃないんだな。一部分は、頭がすっ飛ぶほどに喝采するああいう間抜けどもの責任でもあるんだ――』

 

とあるナイトクラブにて、アーニーというピアノ弾きの演奏を鑑賞した際のホールデンの想い。彼はアーニーが、自慢たらしく弾いたり、曲芸めいた弾き方をする気取り屋のくせして、演奏が終わると慎ましい人間であるかのようにお辞儀をすることなどをインチキだと言う。そして、それに対して気違いみたいに拍手する客たちを間抜けだと言っている。

これはホールデンの気持ちが分からなくもない。

アニメでもドラマでも映画でも何でも、お涙頂戴系の話ってわりと多いけど、ああいうのにも言えることだと思う。

強引でさして辻褄のあっていないインチキな展開でも、涙を誘う雰囲気さえ整っていれば細かいことは気にせずお涙頂戴されてる間抜けな人間がいくらかいて、そうして何となく「あれは良かった」「あれは感動する」などと吹聴したとする。そうして他の人々も流されるままに同調していきやがて大衆になったとする。

一方で、凄く緻密な世界観の上に成り立っており伏線も散りばめられていて、一度じゃ到底全てを理解できないような難しい展開の話があったとして、しかし大衆は「よく分からない」といった具合で感動できないどころか、初めから敬遠すらしてしまう人もおり、全く話題にもならなかったとする。

後者が本当の意味で優れた物語であったとしても、前者の方が優れた物語であるのだと大衆が拍手すれば、そちらが優秀だということになる。

こうなると、良い物語とは、設定や伏線などの物語としての質は二の次で、どれほどご都合主義であろうが分かりやすく単純なもので、尚且つ周囲が良いと言っているもの、ということになる。すると、そんなもんばかりが創られるようになってしまい、そんなもんばかりが人目に付くようになってしまい、そんなもんばかりを絶賛するようになってしまい、何をもって優秀とするのかも分からなくなる。

これは由々しき問題だ。

実際、売れているものが、流行になったものが優秀なのだと断固として譲らない人もいると思う。その優秀たらしめたのは大衆の拍手が一つの要因であり、仮にそれが間違ったものへおくられてしまったとき、それでも一緒に手を叩くのか否かを慎重に考えるべきだろう。

だいぶ話は逸れてきたが、折角なので思いの丈を綴ることにする。

どれだけ周囲が絶賛していても、自分としては特段褒めるようなものでもないコンテンツがあり、その想いを吐き出すと、中には「流行に乗らない自分に酔っているだけ」などと全くもって意味不明なあてつけをしてくる人がいる。真面目に批評し、ちゃんとした明確な理由があり絶賛するに値しないと決めたのに、こんなことを言われては業腹だ。

他にも「皆が良いと思っているのに同調できないのは感性が(悪い意味で)ズレている」と言う人もある。これに関してはそうとも言えるのだが、必ずしもそうとは限らないとも言える。絶賛している大衆の中には、周囲が絶賛している雰囲気にあてられているだけの人間が必ず存在する。

少し前では君の名はや、もうちょっと最近だとけものフレンズなんかはTwitterでの反響は本当に凄いものだった。Twitterだけを情報源にしているのが些か説得力がないが、べつに誰を説得するわけでもないから気にしない。ともあれ、ああいう流行となっていたものが、いざ数か月経ってみたら既に熱が冷めているなんて当たり前のことだ。

大切なのは、流行が過ぎさった後も、その作品への想いが残っている人間がどれだけいるのか、という点にある。

本当に優秀だとおもっていて、大好きで、心底絶賛しているコンテンツなのであれば、周囲の熱が引いても、何度だってそこに立ち返るだろう。そういった人が大多数を占めるのであれば、紛れもなくそのコンテンツは優秀であり、批判する人間の感性がズレているといっても、あまり快いとはいえないが間違った指摘ではないだろう。

反対に、ただ周囲に流され何となく好きで何が良いかなんて具体的にも語れないけど、皆がそう言うならそうなのだろうと同調しているだけで、また次の流行が現れれば、そちらに移動してそれっきりなんて人たちの意見を汲んで、流行したのだから優秀なのだと言っていいのだろうか。

私は違うと思う。

もう自分でも何を言いたいのか分からなくなってきちゃったけど、まあそういうこともある。長話になると自分が本当に何を伝えたかったのか見失いがちになってしまう。

これには参っちゃうね。

 

『会いに来る女の子がすてきな子なら、時間におくれたからって、文句をいう男がいるもんか。』

 

ホールデンの女友達が待ち合わせ時間に十分ほど遅れた際の言葉。

これは至言だと思う、本当に。

でも、こんな風に考えられる男もまたすてきなんだよ絶対にね。

自分の状況に当てはめてみると、女友達なのか付き合いたての恋人なのか、付き合ってしばらくの恋人なのかでだいぶ考え方が変わってくる。

女友達だったり付き合いたての恋人だったら、十分遅れてこようが全然文句は言いはしないんだけど、付き合って一年とかの恋人が遅れてきたら、なんか言っちゃいそう。

すてきだと思ってるから一年付き合ってるんだけど、待ち合わせに遅れたら文句をいう場合は、本当はどう思ってることになるのだろう。

まあ、彼女いないんだけど。

 

『たいして興味のないようなことを話しだしてみて、はじめて、何に一番興味があるかがわかる』

 

飽きてきたので、これで最後にする。

思わず頷かされる言葉だった。個人的にはライ麦で一番の格言。

心に響く言葉って、私の場合はだけど、誰かに伝えたくて堪らなくなる。

それを一緒に頷いて良いねって言い合いたいからなんだけど、そういう意味では、この言葉以上のものは、私史上ほかに類を見ないほどにぴしゃりとくる。

心の格言集の一ページ目においておきたい言葉だ。

 

さいごに

もっと他にも沢山紹介したいのだが、さすがに疲れるのでいくつかに絞った。

主人公のホールデンは、大人や建前やらが大嫌いで、思春期にありがちな俗にいう中二病の極地みたいな奴だから、全体的に鋭い意見を出しているとはいえやっぱり捻くれた感性をしている。よく言えば世の中に対して穿った見方をしている。

それでも煙草は吸うし酒は飲むし大人の真似事はしている。かといっていざセックスをするとなるとどうにもその気がなくなっちゃう、愛くるしさの権化みたいなキャラだ。

この小説は、もし自分が親だったら子供には読ませたくはない。

特に、中学生高校生という世代なら絶対に阻止したい。ラノベでも一般小説でもなんでもいいから活字に触れてはほしいけど、もしライ麦を読むのであれば、いっそ本なんて捨ててしまえとさえ思える。

でも、いつかは読んでほしい小説なことも確かだ。

子供が20歳過ぎたあたりで読んでほしい。

思春期真っ盛りの多感な時期に読むにはちょっと刺激が強すぎるから、もう少し大人になって、でもあんまり大人になるのも駄目だ。難しいところだけど。

もしこれを30歳とかになって読むなら、それはそれで遅いと思う。

ちょっと歳をとりすぎた、世の中を知りすぎたなって年齢だから。もうある程度は達観してきてるだろうから、それでは全然遅い。

もちろんこれは、誰にでも向けて言っているわけではなくて、自分の子供がライ麦を読むのであれば、こんな具合がいいなという想いにすぎない。

しかし確実に言えるのは、小説は、特にライ麦みたいに世の中への不満をぶちまけたりしているような内容のものなんかは特に、読む時期によって受け取り方はまるで変わってくるということだ。

10歳で読んだライ麦と、20歳で読んだライ麦と、30歳で読んだライ麦では、同じ内容でも全く違う印象を読み手に与えることになるだろう。

何が言いたいかって、30歳で初めてライ麦を読むのは遅いってことだ。言い方は悪いけど手遅れってことになる。何故なら、20歳の時点で一度読んでおけば、30歳になったときにまた読めばいいだけだけど、30歳にして初めて読んだら、20歳で読むことはできないんだから。

でもやっぱり、早ければいいってものでもない。難しいところだけど。

とにかく、7月16日はライ麦畑でつかまえての原典が刊行された日だから、もしもまだ読んだことがなくて、少しでも興味があるならば、いい機会だと思って読んでみればいい。

そして、ホールデンが語りかけてくるのに対して自分なりの意見を出してみるのも、結構な週末の過ごし方になるんじゃないかなって思う。